本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー最初の告知 会場内の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』は二割引きで販売 該書以外の勉誠出版刊標目各種も割引販売 本サイトに紹介されている1980年代の版下や色校正紙なども展示予定
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二の告知 会場内の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』は二割引きで販売 該書以外の勉誠出版刊標目各種も割引販売 模擬店で販売される三省堂刊『聚珍録』の掛率については未定 本サイト「図書外装設計」に紹介されている1980年代の版下や色校正紙なども展示予定
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三の告知 入館料一般500円,学生300円 なお早めに入館された向きは是非印刷博物館の企畫展示「近代教育をささえた教科書/東書文庫コレクションを中心として」(http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/090718/index.html)をお楽しみになられたし 会場内の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』は二割引きで販売 該書以外の勉誠出版刊標目各種や誠文堂新光社のタイポグラフィ関聯各標目も割引販売予定 模擬店で販売される三省堂刊『聚珍録』の掛率については未定 柏書房からの出品標目と掛率については13日(月曜日)の部長会議で決定予定 本サイト「図書外装設計」に紹介されている1980年代の版下や色校正紙なども展示予定
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四の告知 入館料一般500円,学生300円 なお早めに入館された向きは是非印刷博物館の企畫展示「近代教育をささえた教科書/東書文庫コレクションを中心として」(http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/090718/index.html)をお楽しみになられたし 会場内の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』は二割引きで販売 該書以外の勉誠出版刊標目各種や誠文堂新光社のタイポグラフィ関聯各標目も割引販売予定 模擬店で販売される三省堂刊『聚珍録』の掛率については未定 柏書房からの出品標目と掛率については13日(月曜日)の部長会議で決定予定 本サイト「図書外装設計」に紹介されている1980年代の版下や色校正紙なども展示予定 ※畫像は Initials in the antique style. 1889年に制作された
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第五の告知 ※畫像は イオを犯す黒雲(ゼウス) コレッジョ/部分 「ゼウスは頭。ゼウスは中。ゼウスより万有は円成す。/ゼウスは大地の源流にして,星光る蒼穹の源底。/ゼウスは男の児となりしことあり。永遠の花嫁となりしことあり。/ ゼウスは王者。万有の主なる雷霆の閃光凄まじきゼウスは。」(『オルフィカ』/井筒俊彦『神秘哲学』参照)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第六の告知 入館料一般500円,学生300円 なお早めに入館された向きは是非印刷博物館の企畫展示「近代教育をささえた教科書/東書文庫コレクションを中心として」(http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/090718/index.html)をお楽しみになられたし 会場内の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』は二割引きで販売 該書以外の勉誠出版刊標目各種や誠文堂新光社のタイポグラフィ関聯各標目も割引販売予定 模擬店で販売される三省堂刊『聚珍録』の掛率については未定 柏書房からの出品標目と掛率については13日(月曜日)の部長会議で決定予定 本サイト「図書外装設計」に紹介されている1980年代の版下や色校正紙なども展示予定 ※畫像は エヴァ・マナリング(Eva Mannering)によって編まれたPierre-Joseph Redouté/ Roses.から薔薇の彩色図の一つ オリジナルは1820年代に描かれたものと思われる
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第七の告知 ※畫像は 『庶物会要』より「六左ヱ門ノ図」 六左ヱ門については『聚珍録』第一篇の註を参照されたし 複写提供=名雲書店
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第八の告知 ※畫像は1862年に制作された Spécimen-Albumより
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第九の告知 ※畫像は イリヤ・チェシーニクによる『ソヴィエト・スクリーン』第四号のポスター・デザイン 二色刷
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十の告知 ※畫像は西蔵喇嘛教のヤブ・ユム像 木版
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十一の告知 ※畫像はブロンツィーノの描いたアプロディーテー/部分 眠っているアプロディーテーの衣を剥取っているのも木陰から窃視しているのもケンタウロス 「さてクローノスが父の陰部を鋼鉄の鎌で刈りとつて陸地から大浪寄せる海原へと投げ棄てるや,其れは久しい間海原の面に漂ふてゐた,そしてそのまはりに白い泡が不死の肉(ししむら)から湧き立ち,其の泡のなかでひとりの乙女が生ひたつた,まずはじめに乙女はいとも長いキュテーラに立ち寄り,其処から四面を海の繞るキュプロスに着いた。畏く美しい女神が陸に上つて行くと優しい足もとに柔らかな草が萌え出るのであつた。彼女を,神々も人間もアプロディーテー,即はち泡から生まれた(アプロゲネース)女神,麗はしい花冠つけたキュテレイアと呼んでゐる,といふのも泡(アプロス)のなかに生ひ育つたのだから。」(ヘシオドス『神統記』/広川洋一訳『ギリシア思想家集』〔筑摩世界文学大系第六十三巻〕所収) 「後世ヴェヌス(ヴィーナス)の名で,絵画に描かれる神としてはギリシア・ローマ神群中おそらく最高の人気を得ることとなったのが美と愛の女神アプロディーテーである。いかなる男であれアプロディーテーへの恋心をかきたてられずにはおられぬという帯をまとい,諸神を惑わせたという最もエロティックな女神であるが,元来オリエント方面にあった女神信仰がオリュムポス神族への習合をとげた姿の一つであろう。この女神の恋人となり,嫉妬に燃えたアレース神に殺されたとするアドーニスにしても,もともとはシリア方面の植物神である。それはともかく――/女神に言い寄った神も多かったであろうが,美と愛嬌の女神の方も大変なプレイガールぶりを示した。旦那は鍛冶の神ヘーパイストスだが,亭主のいない時は戦神アレースを間男として命の洗濯に励み,やがてヘーパイストスがベッドにしかけた罠にはまった二人は全裸のまま網にとらえられてしまう。怒り心頭のヘーパイストスはこの醜態を呼び集めたオリュムポス諸神に公開,ゼウスだけはあたしゃ痴話喧嘩・夫婦喧嘩の類には関与しないと怒ったそうだが,諸神の眼前にあるのは一糸まとわぬ美神の裸体,できるものならアレースと交替したいだろう,何のお主こそ鼻の下がのびてるぜと,かなりイメージのこわれる会話をヘルメースとアポローンがかわしているという有様で,これもやはりアプロディーテーへの欲情にかられたポセイドーンのとりなしにより二人はようやく釈放されたのである。その後,ヘルメースに口説かれて交わり,ポセイドーンには感謝の意をこめて身をまかせるという女神行状録はまだまだ序の口。ディオニューソス,ダルダノス人の王アンキーセウス,さらにアドーニス,果てはアドーニスの嫉妬をそそる魂胆からアルゴー号乗組員プーテース……,何しろオリュムポス神族の長ゼウスも男である限りはアプロディーテーの魅力に抗しえず,ついに養女にあたるこの女神とベッドをともにしたという説もあるというくらいで,さすがに官能の女神,自身の官能もまたエネルギッシュであった。/ただし,公平を期するために記しておけば夫のヘーパイストスにもアテーナー女神(この女神は男など眼中にないという処女神である)を強姦しようとして果たせず,精液をもらしたというしまらない話がある。/やはり,と言おうか何と言おうか,他の女神は余りアプロディーテーの多情に好意を寄せなかったようで,ゼウスの正妻ヘーラーは,ディオニューソスによってアプロディーテーが生んだ子を巨大な男根をもった異形の姿へ変えてしまい,アテーナーはアプロディーテーがひそかに機を織った際には縄張を荒らすな,お前の領分は恋とナニだけだと脅しあげ,後のトロイア戦争の際にはトロイア方についたアプロディーテーの胸にパンチを叩きこんで失神させるという暴力沙汰にまで及んでいる。/言うまでもないことだが,アプロディーテーは異なる相手との間に数多くの子供を生んでいる。だが,女神とは便利なもので海で沐浴すればいくらでも本来の無垢な処女に戻れるのであるから,間違っても所帯じみるということはない*。/それにしても,大地の豊穣を恵み与えるオリエントの大地女神も変われば変わるものである。」(『神話』〔河出書房新社,昭和五十四年十二月/ムック・シリーズ「イメージの冒険」五〕所載の四色印刷による「ギリシア諸神の角度/神々と英雄の煌輝」中のキャプション〔執筆=府川〕より) *は広川洋一訳『ギリシア思想家集』参照
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十二の告知 ※畫像は本阿弥光悦と俵屋宗達の筆になる蔦図 白爾隣東亜美術館所蔵 なお嵯峨本は嘗てしばしば「光悦本」と称された。その呼称の錯誤については夙に川瀬一馬らの指摘があったが前回のセミナーにおいても講師の鈴木広光氏(奈良女子大学准教授)により次の発言が行われている。「今,私はどちらかというと近代というより,慶長・元和のあたりに盛んに行われた古活字版,なかでも嵯峨本ですね,その研究に力を入れております。この分野は非常に象徴的に印刷史研究のあり方を象徴するようなところがございますので,そのことについて少しお話しいたします。お手許の配布資料をご覧下さい。二―三ページを御覧戴きますと,見開きでどちらも古活字版が載っておりますが,右の図はこの印刷博物館が所蔵される嵯峨本の『徒然草』ですね。これを題材にお話をさせていただければと思います。/嵯峨本というのは,よく「光悦本」とかともいわれることがあります。嵯峨本の研究史は,かつて和田維四郎が「嵯峨本考」を著し,その後,日本書誌学の大家である川瀬一馬氏が『嵯峨本図考』,それから『古活字版之研究』という大変な大著を著されて,ここで一つの完成を見たような感があります。ただですね,『嵯峨本図考』が出てからもう六,七十年くらい経っています。その間,川瀬氏の研究を表立って批判して,或いはそれを乗り越えるような研究がどれくらい進んでいるかというと,進んでおりません,正直申し上げますと。それでも最近,関西を中心に嵯峨本の研究が,図書館関係者の方々,また博物館関係者の方を中心にして盛んになってきました。/嵯峨本,本当のところは角倉(すみのくら)本とさえ言いたいところなんですが,と申しますのは多くの場合,「光悦本」と言われるんですね。雲母(きら)引きの表紙や色変わりの料紙であるとかの本の体裁の在り方,そういったものが光悦の王朝文化への志向,それが明確に表れたものだというようなことが言われてきた。光悦本,本阿弥光悦のアート・ディレクションのもとに成り立ってきたと,よくものの本にはそう書いてあります。ところがちょうど先週,五月二十八日ですか,近畿大学で,播磨大和文華館に勤めておられました林進先生が,ある種衝撃的な発表をされた。これは林先生の年来の持論を述べられただけなのですが。角倉素庵のいろいろな書き物の調査を踏まえて見ていくと,いわゆる嵯峨本というものは殆ど光悦などではなく,素庵の筆に成るものであるということが,かなり具体的に明らかにされました。これがどういう意味で衝撃的かと言いますと,例えば古書を扱う,また博物館や図書館で,嵯峨本を光悦のものだというふうに扱ってきた人たちにとっては,本阿弥光悦というブランドによって嵯峨本の価値が高められてきた感が多分にあるんですね。これは深読みかもしれませんが,大和文華館をお辞めになったから,それで林先生が表立って話されたというくらい衝撃的な内容だったんです。嵯峨本が光悦の版下に成るとこれまでよく言われてきましたけど,特段根拠がないんです。林屋辰三郎が中心になって昔出された『光悦』の中にはちゃんと光悦の関与が薄いということが書いてあるんです。にもかかわらず「光悦」という名が一人歩きして,つまり伝説が一人歩きしている情況が多々あるんですね。同じようなことが,細かいところを見ていくとたくさんあるんです。/で,この『徒然草』ですが,刊記がございません。いつ出たか分からないんです。恐らく慶長年間だろうと言われている程度なんですが,これまで刊年がある程度明らかになっているものは嵯峨本でいいますと『伊勢物語』なんですが,慶長十三年,これは中院通勝(なかのいん・みちかつ)という校訂を行った人間の跋文があるのでそこからある程度明らかになるというだけのことですが,この『徒然草』が出たのは慶長十三年以降であろうというようなことがよく書かれてきた。ところがですね,実はこれまた特段根拠がございません。最近,法政大学の小秋元段(こあきもと・だん)さんが,嵯峨本の中でも角倉素庵の関わったことが確実であろう嵯峨本の『史記』の書誌的考察をなさいまして,この『史記』の刊年をいろいろな諸記録から慶長八年の十一月ころだろうとおっしゃっているんですが,面白いことに慶長十一年に出たであろう『史記』の表紙の裏張りにつかわれている反故紙,ええと,古活字版というのは結構面白くて,表紙の裏張りにその近辺で印刷されたであろう又別の古活字版の刷り反故がつかわれていることが多々あります。表紙が原装であれば,その裏張りにつかわれている反故紙は明らかにその本よりも前に印刷されたことが分かるわけですね。この方法による年代推定というのはこれまでもずっと行われてきたんですが,その方法で見ていくとこの『徒然草』というのは恐らく慶長八年十一月以前に摺られたものである。つまり慶長一三年の『伊勢物語』よりも五年以上も遡ることになります。そういうことが地道な研究の中で少しずつ分かってきたということがあります。/嵯峨本に関しては根拠のない説というものがまだ多々ありまして,一つこの版面を御覧いただきたいんですが,古活字版というものの版面,殆ど写本に見えたり整版本に見えたりするかも知れませんが,ここに組んである連綿の活字がどういうふうに出来たのか,実際の活字が残っているわけではございませんので,版面の細かな観察からなんとか探っていくしかないわけです。国文学者の和田萬吉の『古活字版資料』の序文「古活字版中には能書家の版下をそのまま彫刻し,その一字一字を切断して活字とせるが如き体をなせるもの少なからず」と書いています。これはどういうことかというと,整版を切断して活字の駒とするというようなことをおっしゃっているんだろうと思います。この説自体は和田萬吉が新たに考えたことではなくして,元の王禎の『農書』の中に,非常に有名な「造活字印書之法」というのがありまして,そこには書家に文字を清書させた紙を版面に貼って文字を彫刻して小さな鋸で切り離して活字をつくるというのが書いてある。恐らくこれをヒントにして述べられたんだろうと思います。じゃあ,本当にそのように作られたんだろうかというと,版面を見てそのことが言えるというような検討はこれまで誰もやってこなかったわけです。」。以降の,より詳細な研究内容については『活字印刷の文化史』所収,鈴木広光「嵯峨本『伊勢物語』の活字と組版」を参照されたい
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十三の告知 ※畫像は木活字版『大八洲游記』巻五第五丁(部分) 半紙本 天地223粍 「大八洲游記 半一三巻一四冊/青山延寿著。四周双辺,無界,一一行,二〇字,小双行,返点・評点付き。題簽「大八洲游記〈双行で「青山延寿著/(所収内容)」〉」 一上(―十三)」。見返し「鉄槍青山先生著/大八洲游記/東京 松陽家塾活版」。明治十九・二十年の藤野啓・中村正直序。明治二十年の内藤耻叟・島田重礼・青山勇など跋。巻末四丁に「正誤」および「鉄槍子著述目録」(「鉄槍斎文集」など十二部著録)がある。」(多治比郁夫・中野三敏共編『近世活字版目録』〔青裳堂書店,日本書誌学大系五十〕)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十四の告知 <※畫像は東京築地活版製造所の罫畫 往時制作された多色刷り罫畫としては最も手の掛った印刷物の一つであろう。「明治二十年代から三十年代前半にかけ罫畫という組版・印刷手法が流行した。これは組版のエレメント,輒(すなわ)ち加工された罫や約物,飾罫等を用いて畫像を構成し,多くは多色刷によって美麗な印刷効果を図ろうとするもので,ほぼこの時期の活版印刷物にしか見当らぬ手法である。」(『聚珍録』第一篇口絵解説) ※なお印刷図書館所蔵の『花の栞』にこの罫畫のブラック一色刷りと多色刷りの双方が収載されている
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十五の告知 ※畫像はCatechismus christianae fideiのコロフォン イエズス会巡察使バリニアーノが仏教・神道を論難し基督教を擁護した羅甸語の書で鋳造活字による仮名(草体漢字)・和紙へのプレス印刷の嚆矢。1586(天正十四)年,天正少年使節滞在中のリスボンで刊行。判型はquarto。セミナー・タイトルの下半分は切支丹版各標目から集字。
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十六の告知 ※畫像は小島一騰『日本新字発明』の42頁(『真性活字中毒者読本』に図示されたのは43頁) 丸谷新八刊(発兌所九春堂),明治二十(西暦1887)年二月 小島一騰による最初の新字啓蒙書『日本新字』(明治十九〔西暦1886〕年五月)は国立国会図書館,印刷博物館(弊社旧蔵本)等所蔵 「往時の国語国字国文改良論争の熱気は,今日では想像もつかないほどのものであった。論壇人から官僚まで,論争の渦中に参畫した錚々たるお歴々の名をちょっと掲げてみよう(複数の潮流に重複する者もいる)。/平仮名論=前島密,清水卯三郎,伊藤圭介,池原香穉,近藤真琴,宮崎蘇庵,元田直,物集高見,高橋新吉,井上哲次郎,矢野文雄,平田東雄,岡田正美ほか。/ローマ字論=矢田部良吉,外山正一,島田三郎,松井直吉,高橋五郎,榎本武揚,藤岡勝二,後藤牧太ほか。/新字論=平岩愃保,小島(嶋)一騰,林甕臣,伊沢修二,北尾次郎,木村鷹太郎,岡田正美,菅沼岩蔵,井上哲次郎,石川倉次,井口丑二,樋口門之介,増田乙四郎,前田円,小森徳之,オスカル・ゲルストベルガーほか。/片仮名論=鈴木辰海,木村鷹太郎,小森徳之ほか。/漢字削減論および文体改良論・言文一致論など=南部義籌,福沢諭吉,神田孝平,原敬,西村茂樹,三宅米吉,大森惟,末松謙澄,落合直澄,山田美妙,上田万年,三上参次,加藤弘之,細川潤次郎,福地源一郎,坪内逍遙,高山樗牛,岡倉天心,関根正直,金沢庄三郎,朝比奈知泉,中井錦城,高橋龍雄,徳富蘇峰,坪井正五郎,白鳥庫吉,大隈重信,堀江秀雄,後藤宙外,堺利彦,重野安繹,高楠順次郎,新村出,大矢透,ギド・フリドリン・ヴァーベック,バジル・ホール・チェンバレンほか……といった具合である。一方,これらに抗して漢字不可廃論を唱えたのは,中村正直,有賀長雄,井上円了,山中秀男,後藤朝太郎,谷干城,久米邦武,三宅雄二郎,高田忠周ほかの面々であった。こうした国語国字国文改良論争は,大正・昭和には,さらに山田孝雄,芥川龍之介,与謝野鉄幹・晶子,美濃部達吉,島崎藤村,志賀直哉,山下芳太郎,田丸卓郎,石原忍,山本有三らも新たに参畫しての百家争鳴へと引き継がれるのである。/さて,既存の文字体系を借りるか(仮名派・ローマ字派),嘗てどこにも存在したことのない「理想の新国字」をいわば真空中に構想して天降り的にその実現を主張するか(新字派)の差異こそあれ,文字を便利なるべき道具の一つに過ぎぬと看做す文字観念と,近代社会建設のためには国字改革が焦眉の課題であるという基本主張において,国字改革論三派の間にさほどの相違が見られるわけではない。曰く,漢字が原始的な象形文字であるから支那は近代化に馴染まぬのだ,わが国は国力亢進のため支那の文字を駆逐して速やかに合理的な表音文字をもってこれに代替すべし,曰く,錯雑な形の漢字数千字を習得することに学童の貴重な時間を割くよりも,簡易な表音文字体系を採用して実学を教育する時間を増やすべし,曰く外国の文字である漢字ではなくわが国固有の文字を用いざるべからず,曰く,理想は新字だが当面は仮名,続いてはローマ字採用,その後に新字へと移っては如何なものか……エトセトラえとせとら。/当時のこうした論争の資料を繙いていると,その稚気溢れる近代化への信念と,曩に触れた“文字ダーウィニズム”,後進国たることの自覚と日本よりさらに後れた国(漢字のような後れた文字を遣っている支那)への貶視(日清戦争勃発後,漢字を「からのもじ」として仮名やアルファベットに対比する傾向――これは夙に明治初年に発する筆法だが――はますます強まった),己の案が理想的な文字のシステムであることを力説するに当っての御託宣のごとき文体の熱気などが渦のように絡み合っていて,何やら眩暈を覚えそうになることがある。実際,資料に徴す限り,明治の国字改革論者たちのほとんどは(後世に欧化主義者と評されているような御仁をも含めて),今日ではまずどこにも見られぬほどの熱情的パトリオットたちにほかならなかったのである(その末裔である片仮名派ならびにローマ字派は今日まで細々とではあれ残っているが,新字案の公表は「東眼文字」の石原忍あたりを最後に途絶えてしまい,新字派の存在自体も世に忘れられて久しい)。そもそもが幕末以来,世人の“統一国家日本の一日も早い近代化”への渇望は,欧化指向と国粋指向,すなわち,いわば洋学的側面と国学的側面を不可離の要素として併せ持つものなのであった。江戸期の後半から作動した巨大な“装置”は,互いに緒言となり結語となるべき国学と洋学を両面に併せ持って日本の近代化を推進したのである。林達夫ですら「新しき幕開け」で述懐しているように,合理指向・西洋指向の裏側には“西欧に追いつき追い越すべき吾等”が常に存在していた筈である。すなわち,開明を以て知られる者であっても,近代化への意思は同時に“列強に伍すべき日本”“伝統の淵源深かるべき日本”を欧米への憧憬の主体として前提としたものに外ならず,一方洋学的見識と無縁な守旧頑迷の気風は実際のところ,幕末初期の極めて限られた一時期の下級武士らに一定の力を得たことがあったのみで,ランプ亡国論・地球説反対論などの提唱で知られる佐田介石が明治初年の庶人には殆ど物笑いの種として扱われるのみでしかなかったが如く,弊履に等しく棄て去られる運命を避け難かったのである。“王制復古”を機縁にようやっと薩長政府内に居場所を見出した復古派神道の面々などが忽ちにして新しい公教育体系の外へと放逐されたのは,右記の両要素のうち片方しか具えておらぬことが,新時代明治の為政者として最低限の資格と能力すら保持し得ないことと同義であった情況の必然的な皈結というものであろう。/こうした双面的エートスは明治文化のあらゆる局面に見出されるが,国字改良論争もまた例外ではありえなかったのである。そもそも幕末以来,国字改良論者は国学者と洋学者によって占められてきた。自由民権派の裏側に志士の慷慨があったと同様,ローマ字論や仮名国字論を含め国字改良論の裏側には国士の悲憤があったこと,資料によって晰かである。一見して「開明的」に映ろうと,はたまた「反動的」と映じようと,旧幕・薩長の元勲連しかり文士連またしかり,そして草莽にあって日本の運命を考え続けた士の大勢も恐らくこの双面的エートスを併せ持つ人々であったとして大過あるまい。こうした事情は国語国字国文改良論争のあらゆる局面に現れている。洋学と国学を両輪とする日本の近代化の構造を国語国字改良論だけが逃れる術があろうはずはなかったのである。/なお一口に新字あるいは新国字とはいっても,「神代文字」を改作したもの(平岩愃保の「新日本アルハベタ文字」),ローマ字と仮名を組み合わせての改作(小島一騰の「日本新字」「新仮名」,また稲留正吉ほか),仮名の改作(小森徳之の「自由仮名」,また宮崎玉緒,菅沼岩蔵,増田乙四郎,オスカル・ゲルストベルガー,井口丑二,石原忍,藤堂致良など),漢字の改作(古谷栄一の「比喩的形象主義之世界文字」),ローマ字の改作(山田栄造の「独立仮名」,越前谷彌一郎の「大和仮名」),視話文字(伊沢修二ほか),速記文字(林甕臣の「早書き新字いろは」,河野百合人の「一新日本文字」ほか),漢字の部首と片仮名の組合せ(白鳥鴻幹,田中秀穂),明盲共通文字の提唱(石川倉次),象形的図形と仮名の変形の組み合わせ(越前谷彌一郎の「大和仮名」),独特の鼓形「字源」からの展開(樋口門之介)といった具合に,具体的には一人一派的な提案が行われたものである。石川淳の『鷹』に出てくる「異様なアルファベット」とは,実はこれらに取材したものにこそ相違なかろう。」(「神字と新字」『真性活字中毒者読本』より)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十七の告知 ※畫像は大鳥圭介訳『築城典刑』初版凡例の丁 縄武館,万延元(西暦1860)年 「大鳥圭介は文久二年,幕府より江川太郎左衛門御鉄砲方(縄武館=江川塾)附蘭書飜訳方出役を命ぜられ,同三(一八六三)年,陸海軍兵書調方出役に就任。以後次々に昇進を累ね明治元(一八六八)年には歩兵奉行に抜擢される。爾後,東北転戦から榎本武揚と結んで五稜郭の陥落に至る大活劇については闊く知られているところであろう。出獄後は清国朝鮮全権公使を初めとして官・財・教育界に大きな足跡を印して爵位(男爵)も享け明治四十四年歿,享年七十九であった。/大鳥圭介が活字製造と縄武館・陸軍所の飜訳兵書出版に取組んだのは二十代の中葉,青年の日々のことである。さて,縄武館・陸軍所刊行書の標目や大鳥圭介が製造した活字に関説した論攷は数多いが,その内容にはかなりの揺ぎ,相違が見られる。まずは爰に,確実な縄武館・陸軍所の刊行物の目録を掲げておこう(中略)。/『築城典刑』初版(縄武館,万延元年),漢字片仮名交り,大鳥圭介訳(原書蘭国)/『砲科新論』初版(縄武館,文久元年),漢字片仮名交り,大鳥圭介訳(原書蘭国)/『野戦要務』初版(陸軍所,文久三年),漢字片仮名交り,大鳥圭介訳(原書蘭国)/『築城典刑』第二版(陸軍所,元治元年),初版の再版/『砲軍操法』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り(原書蘭国)/『施条砲操法』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り,吉村賢美(賢次良)訳(原書蘭国),『砲軍操法』の附録/『歩兵練法』(陸軍所,元治元年),漢字片仮名交り,大鳥圭介訳(原書蘭国)/『歩兵武器取扱打方稽古心得』(陸軍所,元治元年),漢字片仮名交り,大築保太良訳(原書蘭国)/『歩兵制律』(陸軍所,元治二年),漢字平仮名交り,川本清一訳(原書蘭国)/『山砲演式』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り(原書米国)/『野戦要務』第二版(陸軍所,慶応元年),初版の再版/『英国斯氏築城典刑』(陸軍所,慶応元・二年),漢字片仮名交り(原書英国)/『火功奏式』(陸軍所,慶応二年),漢字片仮名交り(原書米国)/『騎兵練法(騎兵程式)』(陸軍所,慶応二年),漢字片仮名交り(原書蘭国?)/『馬療新編』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り,伊東朴斉訳(原書蘭国)/『勤方規則』(陸軍所,慶応三年),漢字片仮名交り(原書蘭国)/『兵学程式』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り(原書蘭国)/『砲兵程式』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り(原書蘭国)/『歩兵程式(仏蘭西歩兵程式)』(陸軍所,同年),漢字片仮名交り,大鳥圭介訳(原書蘭国)/『峨羅斯及亜細亜ノ図』(同年),多色刷り地図,シャノワヌ(仏)訳,前田又四郎畫/『手銃論』(縄武館,同年),漢字片仮名交り(原書蘭国)/『歩兵令詞』(銃隊方[陸軍所の下部機関],同年),漢字片仮名交り,銃隊方訳(原書英国)/幕末期に於る和文金属活字による印刷物随一の飛抜けた威容と評して異論あるまい。版を重ねた書も何点かあり,『築城典刑』の初版・再版は大鳥活字を使用するが三版は大鳥活字使用本の覆刻整版であるという具合に中々ややこしく,福井保『江戸幕府刊行物』(雄松堂出版,昭和六十年)には更に,「その後,慶応元年に長門明倫館より木活字版で翻印された。」とある(なお福井右掲書には再版と三版の見返の様式の相違についての記事が見られるが,国立国会図書館所蔵の覆刻整版本[三版]の見返は福井の記述する再版活版本の様式と共通している)。初版本は静岡県立図書館葵文庫他に蔵されており,阿蘭陀人百児.Pell, C.M.H.の兵書を大鳥圭介が飜訳したもの。『福翁自伝』に,安政三(一八五六)年中津に帰郷中の福澤が奥平壱岐の所蔵する築城書を盗写し,翌年緒方洪庵の適々斎塾に於て同書を飜訳したという話が出て来るが,この築城書とは『築城典刑』の原書と同じもの。なお福澤訳は結局刊行されていない(『福澤諭吉全集』第七巻〔岩波書店,昭和三十年〕に「ペル築城書」として収録されている)。福澤と同時期に適塾にあった大鳥が福澤の飜訳を知っていたかどうかは判然しない。なお『洋学ことはじめ展』(蘭学資料研究会〔大久保利謙編輯兼発行〕,昭和二十九年)の有馬成甫による解題に,『築城典刑』の改題本である慶応元年兵学校刊の『堡障略典』五巻に先立って広瀬元恭訳『築城新法』七巻が文久元(一八六一)年に出版されたとある。これも百児の同じ原著からの飜訳という(いずれも未見)。」(「和文鋳造活字の傍流」『本と活字の歴史事典』より)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十八の告知 ※畫像はアイザック・ティチング(Issac Titsingh)による『Illustrations of Japan..』より“出嶋阿蘭陀屋舗景” 同書は1822年,倫敦(ロンドン)のアッカーマン(Ackermann)より刊行された
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第十九の告知 ※畫像はティチングの同書より“島原大変”の図(部分) 「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは,寛政4年(1792年)に長崎県でおこった雲仙普賢岳の噴火およびその後の眉山の山体崩壊とそれに起因する津波災害。津波は島原対岸の肥後(熊本県)にも大きな被害を与えたのでこのように名付けられた。/雲仙普賢岳の火山活動により島原地方(現在の島原市)で有感地震が続き,その後普賢岳から噴煙が上がり,溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。活動が収まりかけたかに見えた旧暦4月1日(新暦5月21日),大地震によって城下町の背後の眉山が大規模に崩壊し,大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちた。これを「島原大変」という。この時の死者は約5千人といわれている。/有明海に達した土砂の衝撃によって発生した高波が,島原の対岸の肥後国天草に襲いかかった。これを「肥後迷惑」という。肥後の海岸で反射した返し波が島原を再び襲った。津波による死者は約1万人といわれている。/島原大変肥後迷惑による死者は合計1万5千人にも及び,有史以来日本最大の火山災害となった。」(ウィキペディアによる)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十の告知 ※畫像はアムステルダムのテトロード(N. Tetterode)の見本帖『Proevan van oostersche schriften.』より 刊記はないが1910年から1920年あたりの刊行か 仮名は本来墺地利の王立印刷所(K.K. Hof-und Staatsdrukerei in Wien)のアロイス・アウエル(Aloys Auer)が維納(Wien))版『浮世形六枚屏風』(1847年/オリジナルは柳亭種彦の文政四年版〔版元は西村屋〕)のために製造したものと同じで漢字も清国沿岸部でプロテスタント系宣教師達が開発したものであり,ここでは両者が組合わされている
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十一の告知 ※畫像はレオン・メーチニコフ『L'empire Japonais.』より 1881年寿府(ジュネーヴ)刊 漢字ばかりか「日文」二体,「秀真文字」等の「神代文字」迄が紹介されてもいる
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十二の告知 ※畫像は高田忠周『漢字原理』より 明治三十七年吉川半七刊 印刷所東京活版株式会社 牧治三郎氏旧蔵・小宮山博史氏現蔵 『聚珍録』参照
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十三の告知 ※畫像は斎藤正文堂の見本帖『Printer and Playground.』より 刊記なし 実物は薄緑の色上質紙にブラックの活版一色刷り 本体16頁
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十四の告知 ※畫像は大阪・周拡合資会社の見本帖『三号隷書字数鑑』第一丁 刊記なし 明治三十年代中葉の発行か 本体全三丁 小宮山博史氏所蔵
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十五の告知 ※畫像は千代田印刷機製造株式会社(猿楽町の千代田活字)の見本帖『活字書体』第47頁 刊記なし 草書活字の「行」などのボディ断面は正方形ではない
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十六の告知 ※畫像はレオン・ド・ロニー「和漢字洋訳」 1863年刊 版下はロニーの筆に成るものと思われ拙劣(すなわち海彼初の邦字新聞『よのうはさ』1868年版〔石版刷りと推測される/『聚珍録』参照〕の達者な版下を書いたのがロニーではあり得ない傍証ともなる資料の一つ) 石版刷り
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十七の告知 ※畫像は昌栄堂活字工業株式会社の一枚刷り「和文活字書体見本」 1980年代に入手と記憶 昌栄堂は早大の近所で大和書房のすぐ横手にあった コート紙に二色片面刷り 判型は天地272粍・左右390粍
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十八の告知 ※畫像は畑銀鶏の手稿本『奇獣考』よりカマイタチの図 国立国会図書館所蔵 同書にはもう一つ「大阪難波新地ノ茶店ニオイテ見セ物ニ出セシ風生獣ノ図」(風生獣にカマイタチと振仮名)が示されている
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第二十九の告知 ※畫像は新式国字会・山田栄造の『独立仮名ノ図(太閤記)』より 稜々堂,明治34年10月 明治期新字の鋳造活字の一種
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十の告知 <※畫像はストリップ・ショウ関係の月刊業界紙『芸報ジャーナル)』第74号第一面より 昭和52年2月15日付 弊社には同紙各号(小沢昭一,大泉滉,井上ひさし夫人等も登場)の原紙,複写が一束揃っているが最終的収蔵先は未定
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十一の告知 ※畫像は東京築地活版製造所の総数見本帖『初号明朝活字書体 全』より 大正6年6月改正
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十二の告知 <※畫像は縄武館版・陸軍所版中唯一漢字平仮名交じりの鋳造活字版『歩兵制律』より 版心書題「歩兵製律」 見返し「元治二年乙丑年二月/官版(双行小字)歩兵制律 全/一千八百六十一年式 陸軍所」 築地電子活版旧蔵・印刷博物館現蔵(常設展示)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十三の告知 ※畫像は天学文字を用いた天学教会の経典『テンソジンリキ』より 服部国光著 折本 天学教会本院刊 明治44年1月 ※服部国光,天学文字に関しては『聚珍録』及び『真性活字中毒者読本』等所載「神字と新字」参照
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十四の告知 ※畫像は凸版印刷の30ポイント・ゴシック仮名活字清刷の一部 凸版印刷の活字ラインナップは凸版オリジナルのもの,岩田などが殆どであったが,30ポイントのみは明著,ゴシックとも秀英体であった 大日本印刷も1970年代以降は28ポイントを秀英体から岩田に変更,36ポイントはずっと築地体であった
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十五の告知 ※畫像は『聚珍録』各篇の見返しに遣われる豫定であったマーブル紙の一つ 印刷ではなく各々一点制作のマーブル紙を遣う心算であったが学術振興会の出版助成を享けた三省堂版では遉にそうした仕様とする訳にはいかなかった
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十六の告知 ※畫像は『聚珍録』各篇の見返しに遣われる豫定であったマーブル紙の一つ 印刷ではなく各々一点制作のマーブル紙を遣う心算であったが学術振興会の出版助成を享けた三省堂版では遉にそうした仕様とする訳にはいかなかった
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十七の告知 ※畫像は『聚珍録』各篇の見返しに遣われる豫定であったマーブル紙の一つ 印刷ではなく各々一点制作のマーブル紙を遣う心算であったが学術振興会の出版助成を享けた三省堂版では遉にそうした仕様とする訳にはいかなかった
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十八の告知 ※畫像は島霞谷が開成所内で撮影した徳川茂栄(もちはる/一橋徳川家)と阿蘭陀人ハラタマ 慶応三年九月二十三日撮影 カメラも霞谷の自製(ボディは木製)で鶏卵紙に焼付けられている これに先立って霞谷はダゲレオタイプも自作しているが,それによる撮影物も未だ発見されていない 島霞谷については『幕末幻の油絵師島霞谷』(松戸市戸定歴史館,平成8年)や『聚珍録』等を参照されたい
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第三十九の告知 ※畫像は島霞谷の描いた婦人畫 霞谷は当初南畫を学んだが軈(やが)て洋畫に転向 大きなサイズの油絵には下描きだけが遺されているものの完成品が発見されていないものもある
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十の告知 ※畫像は島霞谷が製造した楷書鋳造活字を用いた大学東校官版『虎烈剌論』の序一丁 石黒忠悳訳述 序二丁表(序の末)に「明治四年辛未夏五月/石黒忠悳」とある 印刷博物館蔵 この印刷博物館本は美本で外袋まで残されている 大学東校は東京帝大医学部の前身 霞谷が製造した鋳造活字の実物は印刷博物館の常設展示コーナーで見ることが出来る
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十一の告知 ※畫像は第一期あきれたぼういず→ミルク・ブラザース→ダイナ・ブラザースのヴォードヴィリアン川田晴久(生家は根津の印刷業者) あきれたぼういずは灘康次,鹿島密夫,小島宏行ら「ボーイズ」系グループの走り 写真は昭和24年の『びっくり五人男』(新東宝・吉本映画提携作品)より あきれたぼういず(第一期・第二期)でウォッシュボードなどを担当していた坊屋三郎は1970年代後半のセラヴィにも顔を見せていた
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十二の告知 ※畫像はフランキー堺がドラムを演奏しているシーン(昭和34年の『人も歩けば』(東京映畫)より) フランキー堺は俳優として著聞だが,昭和29年,フランキー堺とシティ・スリッカーズ(「元祖」冗談音楽のスパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズの名をパクったと思われる)のバンド・マスター兼ドラマーとして出発した 「多額の私財を投じて東洲斎写楽の研究を行っていたことでも有名である。1995年の篠田正浩監督映画『写楽』では,版元・蔦屋重三郎を自ら演じるとともに,企画総指揮も務めた。/8代目桂文楽の弟子でもあり,噺家として桂文昇の名を持っていた。後に,大阪芸術大学舞台芸術学科の教授に就任し,学科長も務めた。」(wapedia:Wiki:フランキー堺)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十三の告知 ※畫像はチャールズ・ロバート・ジェンキンス『告白』(角川文庫) 佐渡歴史伝説館にて入手した著者御自身によるサイン入り
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十四の告知 ※畫像はハナ肇とクレージーキャッツ クレージーは1950年代後半から大活躍するコミック・ジャズ・グループ 昭和38年の映畫『クレージー作戦/先手必勝』(東宝)より(左からハナ肇,安田伸,植木等,犬塚弘) 「 1955年4月1日 クレージーキャッツの前身となる「キューバン・キャッツ」が結成される。結成当初のメンバーはハナ肇,犬塚弘,萩原哲晶,橋本光雄,柴田昌彦,南晴子,筑波礼子。同年1月に設立された渡辺プロダクションに所属する。/1956年 2月に谷啓,3月に世良譲の紹介で石橋エータローが加入。3‐6月の間に,「ハナ肇とクレージーキャッツ」へ改称したもよう。/1957年 3月に植木等,9月に石橋エータローの紹介で安田伸が加入。この頃からテレビ番組などに出始める。/1958年 10月公開の小林桂樹主演「裸の大将」(東宝)で,グループとして初の映画出演。/1959年 3月2日に,初のレギュラー番組となる「おとなの漫画」(フジテレビ)が放送開始。/1960年 6月に石橋エータローが結核で倒れ一時休養。7月には代役として,植木等の紹介により桜井センリが加入。8月にハナ肇が「足にさわった女」(大映)で映画初主演。/1961年6月4日 「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)が放送開始。/ 1961年8月20日 「スーダラ節」発売。これにより爆発的な人気を得る。また同月,石橋エータローが復帰するが,代役であった桜井センリもそのまま残り,以降7人のメンバーによる活動となる。/ 1962年7月29日 東宝クレージー映画第1作「ニッポン無責任時代」公開。主題歌として発売された「無責任一代男」も大ヒットを記録。以降,1960年代後半まで,映画,テレビ,舞台,レコードなど,全ての面で高い人気を誇る時代を迎えることになる。/1962年12月31日 第13回NHK紅白歌合戦に初出場。歌は植木等のみだったが,他のメンバーも応援で登場。以降,クレージーは1970年まで(応援団としても含め)連続出場する。/1964年12月31日 「おとなの漫画」放送終了(全1835回)。/1965年 結成10周年記念の舞台として,5月に「クレージーの太閤記」,7月には「10年だよ!! クレージーキャッツ」を公演。10月31日には同記念映画「大冒険」も封切られる。/1971年 1月に石橋エータローが退団(料理研究家に転進)。以降,6人のメンバーでの活動となる。」(ウィキペディア「クレージーキャッツ」より) なべおさみは元ハナ肇の,小松政夫は元植木等の付人 「1939年 僧侶としての修行をするべく,東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。/1944年 旧制京北中学校卒業後,東洋大学専門部国漢科に入学。/1946年 テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。/1947年 3月に東洋大学専門部国漢科卒業後,東洋大学文学部(旧制)入学後,結婚。同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが,正規に音楽を勉強したことがないということから,ギターの練習を開始。その後ジャズに傾倒してギタリストを志す。/ 1950年 東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業(東洋大学の公式サイトや校友会誌などでは「昭和22年3月専門部国漢科卒」という肩書きになっていることから中退という説もある)。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。/1952年 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を山崎唯(p),大石康司(b)と結成。植木のバンドが演奏していると,進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。/1954年 オペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けているときにフランキー堺に誘われ,シティ・スリッカーズに参加。/1957年3月1日 シティ・スリッカーズから谷啓らのいるクレージーキャッツに参加。その主要メンバーのひとりとして活躍し,ジャズ喫茶などで人気を博す。/ (中略)1961年 やはり,クレージーキャッツの一員として,日本テレビの番組「シャボン玉ホリデー」に出演,「お呼びでない?」など歴史に残るギャグで爆発的な人気を得る。/ 1962年 古沢憲吾監督の東宝映画「ニッポン無責任時代」に出演し,大ヒット。以降,「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。『スーダラ節』,『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。/(中略)植木等の父親である徹誠は,かつて徹之助と名乗っており,若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思う事が,すでに相手を差別していることだ」と述べて,水平運動に参加した。治安維持法違反の罪にとわれて投獄をされても積極的に反差別と反戦を貫いて運動をした。また,60年安保のデモ隊にも参加した。/ただし,「謹厳実直」なだけの人物ではなく,息子・等から見ると「支離滅裂」で,義太夫語りになろうとしたこともあり,「いわば蕩児でもあった」という。/少年時代には,ステテコ一丁の徹誠が等を,寺の「仏様」の前につれていき,物差しで頭を叩きながら「この音を聞いてみろ。金ピカだけれども中は木だ。こんなものを拝んでも,どうにかなると思ったら大間違いだぞ」と諭されたという。/「等」の名前は,この社会運動家の顔も持っていた父が「平等」にちなんで名づけた。少年時代の等は,投獄された父に代わって僧衣を纏い檀家を回るという生活を送っている。その経験もあってか,1993年にハナ肇が亡くなった時,その葬儀において自ら読経した。」(ウィキペディア「植木等」より) 「学生時代は 優等生/万能選手で 人気者/こんな天才 今迄 見た事ない/とかなんとか 云われたもんだが/今じゃ しがねエ サラリーマン/コラ又 どう云う訳だ/世の中 間違っとるよ/誠に 遺憾に存じます 」という「遺憾に存じます」(1965年11月発売)は寺内タケシをリーダーとするブルージーンズ(寺内の数寄に満ちた半生についてはウィキペディア「寺内タケシ」を参照されたい)をバックに植木等が歌った曲で青島幸男・萩原哲晶コンビによる最後の傑作に外ならない(優等生の“顛落”を題材とした曲では「小学時代は 優等生/中学時代も 優等生/高校時代も 優等生/どうして大学八年生/ああ 悲しき わがこころ/(台詞)勉強になりました 」と始る「悲しきわがこころ」〔クレージー全員のソロ・ヴォーカルがある唯一のヒット曲〈1965年4月発売〉〕もある) 植木のクラシック的発声から急転直下する「ハイそれまでヨ」(1962年7月/「無責任一代男」のB面だった)は映畫『ニッポン無責任時代』の主題歌で「スーダラ節」(1961年8月/「チョイト一杯の つもりで飲んで/いつの間にやら ハシゴ酒/気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝/これじゃ身体に いいわきゃないよ/分かちゃいるけど やめられねぇ/ア ホレ スイスイ スーダララッタ/スラスラ スイスイスイ 」と始る初の大ヒット曲)と並ぶ最高傑作と言えようか 「C調」はジャズ系の符牒だが「ゲバゲバ」など学生運動用語をクレージーが取入れて流行らせたケースもあった 「スイスイ」については,どちらが先行していたか極めて微妙なところ
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十五の告知 ※畫像は新生ドリフターズ 昭和44年の映畫『ミヨちゃんのためなら全員集合』(松竹)より(左から加藤茶,荒井注,いかりや長介,仲本工事,高木ブー) ドリフターズの名付親はハナ肇(ハナの脳裡にこの時ベン・E・キング&ザ・ドリフターズが過ぎっていたかどうかは不詳) いかりや長介は,「 東京都立本所高等学校に進学,同校を中途退学後,地元の製紙工場(春日製紙)に勤めながら,同僚らとハワイアンバンドを組み,ダンスホールで活動していた。そもそも音楽を始めた動機が,女性に「モテたい」からだったという。/1959年にミュージシャンを目指して上京,最初の妻とともに新宿2丁目のアパートで暮らす。ミッキー・カーチスも在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後,カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり(ギタリストは寺内タケシ),立川や横須賀や横田の米軍キャンプで巡業。/しかし1961年12月31日,巡業の往路で交通事故を起こして,「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化する。1962年,加藤茶と同時期に,小野ヤスシやジャイアント吉田らが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。その後,諸事情から小野らは独立してしまう。/1964年に仲本工事,高木ブー,荒井注を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成。それとともに,ナベプロの傘下に入って,当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として,大々的に売り出した。ただし,いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述しているとおり,クレージーの直弟子であったわけではない。/1966年にはビートルズの前座として武道館で公演。仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。/ベーシストとしては,日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあるが,これは近田春夫の流したデマである。実のところは,その頃にウッドベースからエレキベースへ転向したプレーヤーの間では,主流であった親指弾きである。バンドマン時代に演奏していたカントリー&ウエスタンや,ロックンロールにチョッパー奏法はまったく必要ないし,チョッパーをしたこともないと,ドリフの元メンバーで親友のジャイアント吉田が語っている。/(中略)日本で初めてフェンダー製のエレキベースを使用したベーシストであることは,ベースプレーヤーとして特筆すべきことである。なお,親指引きをはじめた経緯としては,事務所の後輩であるザ・ワイルドワンズの島英二の証言では,島の勧めでピック奏法をしようと思ったが,ピックを持っていてはコントに支障が出るためとのことである。」(ウィキペディア「いかりや長介」より) 「一般的には,いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが,結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており,テレビや映画出演が多くなるにつれ,コミックソング,コントやギャグが主体となっていった。/いかりやが正式リーダーに就任した2年後の1966年にはビートルズ日本公演の前座を務め,僅か40秒の演奏時間ではあったが,前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず,ドリフターズだけはビートルズと同じステージで演奏した。これをきっかけに,ドリフが注目されるようになる。なお,加藤茶は,ビートルズの前座はしたものの,警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが,いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。その際,ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり傷はつかなかったものの激怒。しかし,何も言う事が出来ずにいたが後に,傷がついて欲しかったと話した。」(ウィキペディア「ドリフターズ」より) 小野ヤスシ,ジャイアント吉田,猪熊虎五郎,飯塚文男,祝勝のドンキー・カルテットのうち祝以外は初期ドリフターズのメンバー
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十六の告知 ※畫像は山田美妙『嫁入り支度に教師三昧』 八ウ‐九オ 明治23年 歴とした整版本でありながら段落行頭を字下げし句読点も遣分け,括弧類やクエスチョン・マークなどの約物を使用 『真性活字中毒者読本』所載「日本語組版の歴史」参照
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十七の告知 ※畫像は李朝銅活字による活版印刷物で『青丘詩鈔』 大正4年 朝鮮総督府刊の大本
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十八の告知 ※畫像は手書版下・コピント印刷による雑誌で『ハードスタッフ』第8号と第9号の表紙 (徳島)先鋭疾風社 1979年2月(第8号)・同年11月(第9号) B5判 本体20頁(第8号)・24頁(第9号) 同誌は後に竹田賢一をして「手書ミニコミの最高峰」と言わしめたが,この頃は未だ薄手であった 近年の号では遂に手書を抛棄してDTPに移行している
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第四十九の告知 ※畫像はデカルト『理性を正しく導き諸学における真理を探究するための方法の序説。附,この方法の試論たる,屈折光学,気象学,ならびに幾何学(Discours de la Méthode pour bien conduire sa raison et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Diptrique. Les Mé}téores. Et la Géométrie. Qui sont des essais de cetta Méthode.)』のコロフォン 印刷図書館蔵(常設展示) 羅甸語ではなく仏蘭西語で誌されている(後年,羅甸語訳版も刊行された) デカルトの生きた時代は近世の曙の時期であった デカルトは「法服貴族」の子として1596年3月末に生まれ,1650年2月11日に瑞典(スウェーデンで)客死している 法服貴族とは買官により貴族となった新興貴族で多くは司法官出身だった。彼自身その階級の出身者である宰相リシュリューによる庇護政策のために,政治的発言力も大きかったという パスカル,ラシーヌ,コルネイユ,モリエールなども法服貴族の出身である デカルトはイエズス会のラ・フレシュの学院,つづいてポワティエの大学で学んで法学士号を取得し,研究と思索を妨げない快適で静寂な環境を求めながら以降の人生の大半を漂泊と旅行のうちに送った(「異国に生きて独り暮すのをしも旅と言うならば,彼は旅に生きて旅に死んだ。」〔所雄章『デカルトI』〕) 日本で言えば文禄の末年から慶安3年までということになるが,つまり関ヶ原の合戦の5年前に生まれて,三代将軍家光の代,慶安御触書発布の1年後に歿したことになる 仏蘭西ではちょうど,大デュマの描いたダルタニアンや『三銃士』の時代で,今や強力な絶対王権が確立されようとしていた(デカルトが歿する2年前に三十年戦争が終結してウェストファリア条約が結ばれる 今日にいたる,各「国民国家」による〈ヨーロッパ〉の枠組がようやく出来上がったのがこの時である デカルトの幼年時代にティコ・ブラーエが歿し,彼の青年時代にはスネリウス,ベーコン,ケプラーが歿した デカルトとほぼ同世代にはガリレイ,トリチェリ,フェルマーらがいる(数学者のフェルマーはデカルトと激しい論戦を交わしているし,ガリレイが宗教審問所から有罪宣告を受けた報に接したデカルトは地動説を含む『宇宙論』の出版を断念した) 往時,ヨーロッパの思想・精神風土の世界は,[I]基督教の原理,[II]ルネサンス以降に勃興していたユマニスト・モラリスト的理想,そして[III]ようやく誕生した近代的な数学的自然科学の知見という三つの契機が互いに睨み合っているような情況であった [I]と[II]は宗教的彼岸主義と現世的世俗主義の対立をなし,[II]と[III]には自己主張の主観主義と科学的客観主義の対立が存在し,[III]と[I]の間には数学的力学的に明らかにされる自然観と神中心的自然観の対立があった(更に,それら以外にルネサンス以来のオカルト的神秘思想の流れも無視しがたい) デカルトは,アリストテレス・スコラ的パラダイムを端的に脱することにより,いわばそれらを綜合した人ということになるのだろうか 転形期なればこその妙な(というかオモシロい)人物が一杯いたに相違なく,デカルト自身からして人付き合いの悪いかなりの変人ではあるが,例えば「メルセンヌ・アカデミー/メルセンヌ・サロン」の主宰者として,デカルト,パスカル,ホッブス,ガッサンディ,ミドルジュ(数学者),モラン(数学者),ヴィルブレシュー(障害者のための廻転椅子の考案者),ドボーヌ(デカルト『幾何学』の注釈書の著者),フェリエ(レンズ磨きの名人),バルザックといった錚々たる面々と付き合ったメルセンヌなどもその一例に挙げられよう(大学で数学を学んだ人は「メルセンヌ素数」を知っているかも知れないが,そのメルセンヌである) 「ガイスト@千坂恭二さん/アルミン・モーラー文庫ですか。全く知りませんでしたが,北海道大学(あるいは他の大学)には,ちゃんとそれを研究している人がいるのでしょうか。国立音楽大学にあるメルセンヌ文書(遺された全メルセンヌ文書の三分の一ほどといわれています)も,誰もまともに研究する人が現れないまま,今日まで塩漬となっていますが,同様の事態にならないことを祈ります。/メルセンヌについては所雄章氏の『デカルトI』(勁草書房,思想学説全書14,1967年)で知りました。メルセンヌは「ラ・フレシュの学院の出身で,フランシスコ修道会に属する学僧,神学から数学や自然学,果ては占星術や錬金術や魔法術に亙って無類に博識なこの人の思想を語るためには稿を更める必要があるであろうが,彼はかくて,この当時パリにいた無神論者の数を五万人以上と算え,神の存在の証明を八十通り以上も並べた(Cf., A. Koyré, Descartes und die Scholastik, 1923, S.100)り,時としては,ノアの箱船には百六十種の動物を容れるだけの広さがあったと言明し,天使が天と地に同じにいることができるのを平行四辺形を用いて証明しようとし,恩寵の数の計算を企図する(Cf., Re Lenoble ou la naissance du mécanisme, 1934, chap. 6 §2)など,珍妙な脱線をも辞せなかったとはいえ(中略),このときにはすでに水準を超えた物理‐数学者の一人でもあった」と所氏は誌しておられます。メルセンヌのサロン(メルセンヌ・アカデミー)には,デカルト,パスカル,ガサンディ,亡命中のホッブス,ミドルジュ,モランらが出入りしたといいます(またメルセンヌは往時の知識人同士による情報往来の要の一つであったと思しく(中略)迂生は嘗て「平行四辺形を用いた証明」の内容に興味を持ち,編輯者として原稿依頼の折,所先生にお訊ねしたことがありますが,先生もオリジナルの資料を御覧になったことはなく,中身をご存知ではおられませんでした。今でもデカルト学者の一人や二人くらいは日本にいそうなのですが,国立音大図書館にメルセンヌ文書(羅甸語と仏語で間に合うと思います)を調べにいった研究者がいるとは寡聞にして知りません。 日仏会館のパスカル・グリオレさんやクリストフ・マルケさんにお聞きしたこともありますが,彼等も現在の仏蘭西に(デカルトやパスカルならともかく)メルセンヌの研究者がいると聞いたことはないと仰っておられました。」(Mixiにおける府川の日記の一部より)
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第五十の告知 ※畫像は『ゼンボウ』60‐7号より 『ゼンボウ』は右派系イエロー・ジャーナリズムの“雄”で取分け新左翼系のガセネタが多いということで定評があった この座談会で登場している「全学連(共産同)指導者」とは1960年6月15日の国会突入闘争で起訴され被告となった故・篠田邦雄(1970年代初期に高橋良彦・長崎浩・石井暎禧らとブント再建準備委員会〔機関紙『ローテ』〕を結成し,自民党・加藤紘一(東大で古賀暹と同級生)ルートを用いての三里塚和解工作を契機とした同派分裂後は高橋・長崎・石井と共に「遠方から」派を結成した〔同派の機関誌『遠方から』各号は国立国会図書館で閲覧出来る〕/一方,古賀暹(第一期及第二期『情況』編輯人),廣澤一男ら反遠方派系は游撃派を結成,その後種々の離合集散を経て今日のブント首都圏委員会〔機関紙『時をよむ』〕に至る) 篠田については同じ6・15被告団の仲間であった西部邁の『センチメンタル・ジャーニー』を参照されたい この見開きの上半分の文字と罫線は写真と共に本文の活字組版とは別進行ですべてレタリングによる 写植の普及後も週刊誌の大見出しにはレタリングが用いられるのが普通で凸版印刷などではタイトル用手書書体の見本帖まで用意していた
本年八月二十九日(土曜日)に開催されるセミナー第五十一の告知 入館料一般500円,学生300円 なお,お早めに入館された向きは是非印刷博物館の企畫展示「近代教育をささえた教科書/東書文庫コレクションを中心として」(http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/090718/index.html)をお楽しみになられたし 会場入口の模擬店では勉誠出版の該書『活字印刷の文化史/きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』等を割引き販売(『和紙のすばらしさ 日本・韓国・中国への製紙行脚』2900円,『古代製紙の歴史と技術』4200円,『文字論 新常用漢字を問う』2900円,『日本古典博物事典―動物篇』8000円,『活字印刷の文化史』8200円,『文化財と古文書学』3000円,『三大編纂物―群書類従・古事類苑・国書総目録―の出版文化史』2700円) 誠文堂新光社のタイポグラフィ関聯各標目も割引販売(『文字本』1890円,『新版タイポグラフィ・トゥデイ』3591円,『新撰日本タイポグラフィ』3402円,『文字とデザイン TYPO-GRARHICS』2646円,『文字の美・文字の力』2646円,『文字講座』2079円,『日本語組版の考え方』1323円,『基本日本語活字見本集成Opentypo版』4064円,『日本語活字ものがたり/草創期の人と書体』2268円,『大日本字』2646円,『デザインノート』No.2・No.13・No.19・No.25は各1512円) 実践社刊『印刷史/タイポグラフィの視軸』は会場入口の模擬店で2000円で販売 白順社刊『ザ・一九六八』も会場入口の模擬店で2200円で販売 『琉球独立党文書資料集』は500円で販売 柏書房の三標目も大幅割引販売(『本と活字の歴史事典』は8000円,『真性活字中毒者読本』は3800円,『ブリティッシュ・ロック大名鑑』は6800円) 彩雲出版刊『文字の骨組み 字体/甲骨文から常用漢字まで』は1700円で販売(以上,孰れも税込価格) 会場入口で注文を受付ける三省堂刊『聚珍録』の特別頒価は38000円 BUSの『Live at Pit-Inn 4/5/1984』や『本当にインターナショナルなインターナショナル』など音楽CD(各10枚限定)は1000円で販売 当初,本サイト「図書外装設計」に紹介されている1980年代の版下や色校正紙などの展示を予定していたが会場内にスペースを確保出来そうになくなってきたので中止 ※畫像は『世界革命運動情報』17号と『地下音楽』(『同時代音楽』の雑誌内雑誌/同じく雑誌内雑誌の『ブリティッシュ・ビート』と同様,本体とは用紙からして別で黄色の色上質紙に印刷されている)第1号の表紙 『世界革命運動情報』17号は世界革命研究会編輯,レボルト社発行,昭和44年4月 『同時代音楽』第1号は企畫編輯ロータス・ルーム(『音楽全書』を制作していた百夜夢譚舎=府川が元日大〔経済〕全共闘・大月英明と組み合衆国西海岸から急遽ハイ・タイド・ハリス〔ブルース・ミュージシャン〕を来日させるために改名し,猿楽町に構えた事務所/極く近くに千代田活字があった),ブロンズ社発売,昭和54年3月 『世界革命運動情報』で達意の原稿整理を行っていたのは松田政男 今日現代企画室の太田昌国も同誌に出入りして翻訳の手伝いをしていた 『地下音楽』第1号で仏蘭西語・独逸語からの翻訳作業を担ったのは竹田賢一と白井順 『世界革命運動情報』と『地下音楽』に共通する円形のマークを制作したのは赤瀬川原平 『世界革命運動情報』の誌名タイトルは写研の石井ゴシック体,一方『地下音楽』は同じく写研のゴナUを使用
8.29関聯告知了
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